生涯

ルイス・カーンは、しばしば最後の巨匠と呼ばれる。 それは、構造と意匠が高度な必然性の高みで融合し、その精神性を専門家だけでなく、広く一般にまで感受させることのできた建築を作り続けた最後の例だからである。

カーンは最初、ローコストの公共住宅などを手がけ、イエール大学アートギャラリーで初めてチャンスを得る。 四角錐のグリッド・パターンによるスペース・フレーム(スラブ)で、ブルータルな表情を見せたが、外観は素材と工法においてきわめてオーソドックスなモダニズム様式である。 カーンは、建築素材の扱い方において慎重であり、素材はその本性に沿ってのみ扱われるべきだと信じていた。

ペンシルベニア大学リチャーズ医学研究棟で、いわゆる彼の言うところの「サーブド・スペース」(サポートされる機能空間)と「サーバント・スペース」(サポートする機能空間)が試され、階段室、排気、給気ダクトが納められた4本のシャフトが鋭く起立するデザイン的完成度で建築界の注目を集めるも、設備的完成度の未熟さもあって、使い心地は悪かった。 その経験も踏まえ、満を持して取り組んだのが、カリフォルニア州ラ・ホヤのソーク生物学研究所である。 これは、ポリオ・ワクチンの開発で有名な細菌学者のジョナス・ソーク博士がリチャーズ医学研究棟を見て感銘を受け、「芸術家のピカソを招いてもいいような研究所を」という彼の肝いりで始まったものである。 リチャーズでは縦に割れていた「サーブド・スペース」「サーバント・スペース」の関係性が、ここでは設備的には上下2層に分かれ、さらには共同作業を行う実験室と明確に分けられる形で、居住性に配慮した個人研究用の個室を、中庭に面して左右対称に、45度の角度で重なり合いながら横に張り出させている。 そしてその外観を、明るい砂色のコンクリートに良くマッチした窓枠のチーク材の生成りの色合いとのツートーンで際立たせつつ、印象的なファサードを形作ることに成功した。

実は、この傑出した中庭は、そのデザイン処理に最後まで悩んだカーンが、建築家であり友人でもあったのもう一人のルイス、すなわちメキシコのバラガンのアドバイスを頼んだことによるものである。 伝えられるところによると、相談を受け現地に立ったバラガンは即座に「ここには何も置くべきではない。ただのプラザになるべきだ。そうすればここは空へのファサードになるだろう」と言い、カーンもまたすぐにそのデザイン意図を理解したという。 カリフォルニアの明るい太陽の下、中庭の真ん中に穿たれた浅く細い水路の先に、広大な太平洋を望むランドスケープは、カーン建築のなかの嚆矢である。

以後、バングラデシュとインドで国家的プロジェクトに携わるも、カーンの作品の中での白眉といえば、テキサス州フォートワースに建つキンベル美術館であろう。 カマボコ形のコンクリート・ボールトの屋根を戴いた細長いユニットがおよそ3×6の配置で並べられた建物は、実業家で熱心な美術収集家であったケイ・キンベル夫妻の私的コレクションの為に計画された。 ボールト屋根の頂部にうがたれたトップライトからの自然光は、アルミ製のパンチングメタルの反射板で受けとめられ、銀色の間接光で満たされて光輝くコンクリート打ち放しの天井面を作り出す。 その柔らかな光は、地上ではここでしか見ることのできない性質のものである。

いわゆるコンクリート打ち放しを、建築デザインとして用いたのはフランスのオーギュスト・ペレが最初であるが、それをモダニズムの美学として発展させる取り組みは、日本が世界で最も早く、アントニン・レーモンドを経て、後に日本のお家芸と言われるまでになる。 カーンのコンクリート打ち放しによる柱梁表現も、丹下健三の初期3部作(広島ピースセンター・旧東京都庁・香川県庁舎)に影響を受けたのではないかとする向きもあるが、その細部に至るまで緻密な表現は、エンジニアのオーギュスト・コマンダントの協力もあって、カーン独自の美学的完成度をみせている。

しかしながら、モダニズムの禁欲的な原則にのっとって、構造と素材が厳しく幾何学的形体として操作され、そのディテールの精度とプロポーションの確かさにも関わらず、出来上がった時からもうすでにどこか廃墟の風情をたたえるカーンの建築は、しばしばアナクロニズム(時代錯誤)とも評される。 荘厳にして冷ややかな、神亡き機械時代の神殿を築いたかのようでもある。

カーンはまた、哲学的な建築論でも知られ、その言葉はしばしば深淵で神学的な響きを帯びた。 その教えをペンシルバニア大学でじかに受けた建築家の中に香山壽夫がいる。